格闘技の歴史

総合格闘技の歴史とこれからの総合格闘技

1.総合格闘技の歴史

(1)修斗のルーツ

シューティング(修斗)は、新日本プロレスの新弟子であった当時18歳の佐山聡総監が「本当の戦いとは打撃に始まり、組んで投げ、関節技で仕留めるもの」という考えに基づき作られた。
ヨーロッパでアマチュアレスリングの実績を挙げた後、アメリカに渡りプロレスを行っていたカール・ゴッチ氏の道場(フロリダのゴッチ氏の自宅)で、佐山総監は本格的に関節技や格闘技のあり方を学んだ。
その後、三軒茶屋にあったスーパータイガージムにはゴッチ氏が度々足を運ばれ、実際に指導を行っておられた。
この頃、ゴッチ氏より、古代ギリシャ・オリンピックではパンクラチオンと云う競技が行われており、それが厳しいルールに則った、佐山総監が理想とする格闘技であった事を知る。
パンクラチオンではレスリング、ボクシングと三種目を制した選手や四回の大会を制した選手が生まれるなど華々しい種目であった。
その後、パンクラチオンはローマ時代になると見せ物に堕落し、遂には消滅してしまう。
「パンクラチオンの復活」は佐山総監の念願であった。
「本当の戦いではいきなり組むという事はあり得ない」との考えから、佐山総監は、当時タイ人以外で最初のムエタイ王者となった藤原敏男氏が在籍していた巣鴨の目白ジムに入門し、打撃の基礎と練習の厳しさを学んだ。
実際、佐山総監は入門後間もなくキックボクサーとの異種格闘技戦に臨み、敗れたものの、随所でタックルを決めるなど、その後のシューティングの戦い方のヒントを得ると共に、益々打撃の練習にのめり込んだ。
なお三軒茶屋にあったスーパータイガージムの練習の厳しさは目白ジムに倣ったものである。

(2)プロ化前夜

新日本プロレスを退社した佐山総監は、瀬田にタイガージムを設立し、真剣勝負の競技を作るという夢を実現に移した。
その頃、新日本プロレスから独立したユニバーサルプロレス(UWF)の社長を務めていた浦田昇氏の誘いで佐山総監はUWFに参加した。
最初はプロレスを行い、次第にルールをシューティングのルールに変え、やがて全てが真剣勝負の格闘技を行う予定であったが、他のプロレスラーとの意見が合わず、UWFを退社することとなる。
UWFのリングに上がることを考えていたタイガージムの練習生の中には失望し、辞めて行く者もいた。
佐山総監は
「UWFでの僕の真似をしちゃだめだよ」
と練習生に語っていたものの、練習生の憧れはタイガーマスク(スーパータイガー)の戦い方であった。
その反省から、佐山総監はジムを三軒茶屋の雑居ビルに移し、フロアーひとつと屋上に設営したテントという決して恵まれない環境で「本当の戦い」を体現出来る選手を育てる決意をした。
マスコミにちやほやされ、スター気分に陥らないように、クール戦(定期的に行われるプリシューターの試合)を非公開にする、大学の文化祭で行う等、ただ選手を強くすることだけを考えていた。
「地獄の合宿」と呼ばれる合宿を度々行い、選手に格闘技の厳しさ、ハートの大切さを叩き込んだ。この合宿を経て生まれたのが「シューター」である。
「シューターはただ強いだけではなく、紳士でなければならない、ハートのある人間でなければならない」という考えから、シューターになる為にはその人間性も重要視された。
この考えが、たとえ佐山総監が一線を退かれた後でも残るようにとの思いを込めて付けられたのが「斗いを修める=修斗」という呼称であった。
「斗」とは「知る(識る)」という意味があり「戦いを通じて人の弱さを知り、それを乗り超えることが出来るように」との思いが込められている。
その意向を受け、コミッション設立の際は「修斗」がシューティングの正式名称として採用され、マスコミにもそれまでの「ST」ではなく「修斗」を使用するよう要請された。

(3)プロ化後

最後のクール戦で、それまでサミングから目を守るためにしていた防具マスクをはずし、1989年5月18日、プロ化第一戦が行われた。
全ての試合が一本で決まる理想の試合運びだったが、佐山総監はその後も試合を通じて選手の強化を第一義に考えた。
また、プロレスと比較され「地味である」との評価が選手の意欲を削ぐことを恐れた佐山総監は、プロレスを掲載する雑誌には取材を断り、また興行の度に「スーパーデモンストレーション」と称し、プロレスとシューティングの違いを観客に説明していた。
その後「修斗は流派(団体)ではなく競技である」との考えを打ち出し、選手を広く他に求め「オープン・トーナメント」を開催した。
「バーリ・トゥード・ジャパン」は「第二回オープン・トーナメント」として開催予定であったが、当時アメリカで人気を博した「アルティメット・ファイト・チャンピオンシップ」の優勝者の実兄であるヒクソン・グレイシー氏がUSA修斗を通じ参加を申し込んで来た際、彼がルールをブラジルのバーリ・トゥードに近づけたいと提案した。
バーリ・トゥードを旧くから知っており、またシューティングのルールをそれに近づけたいと考えていた佐山総監はこれを好機と捉え、グラウンドでの顔面へのパンチが有るルールが完成した。
ヒクソン・グレイシー氏も修斗のスポーツ性は高く評価しており、今日の修斗ルールはいわばこの時に誕生を見た。
即ち「バーリ・トゥードから野蛮性を排除し、社会的な信用を得られるスポーツ格闘技」を目指す事となった。

2.これからの総合格闘技

(1)ルールの問題点とその解決策

元々「バーリ・トゥードで勝つ為に重要な寝技を学ぶ為」に寝技のポイントがわざと高く設定されているアマチュア・ルールで勝てる者がプロになっている為、「打・投・極」を観客に見せられない選手が増えている。
佐山総監は「(修斗が柔術の試合のようになっているが)修斗はバーリ・トゥードで良いけれど、柔術はバーリ・トゥードではないから、修斗が柔術であってはならない」
「ドント・ムーブは修斗の恥ずかしい部分」
と述べており、現行ルールをバーリ・トゥード以前のルールに一部戻すことが修斗の面白さを観客にアピールすると共に、打撃が強い、最低限、我が身を守る為の実戦性のある修斗にする為に必要なことであると私は考える。
具体的には、ブレイクを早くし、ドント・ムーブを無くし、一試合に「打・投・極」を何度も観客に見せられるようにする(その分打撃や投げ技の比重が高くなり、試合は面白くなる)。
「ノック・ダウンは最上のテイク・ダウン」と考え、ダウン・カウントを取らず、ノック・ダウンを奪った者がそのままグラウンドで「極」められるようにする。その分打撃の重要性が高くなり、打撃が強い選手が増え、試合はよりスリルのあるものになるのではないかと考えている。

こうした「実戦向きで」「面白い試合をする」選手を育てる為には、現行のルールでは不十分で、「プロ・ルール」(但しグラウンドでの打撃なし) でアマチュアの試合をするのが良いと思われる。

※これらの案は、2006年6月7日、掣圏真陰流の試合規則として実現した(「掣圏真陰流御成敗式目」)。

出典:大原友則修斗セミナー
原案:小方康至
作成日:2001年11月2日

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